選挙に行かないという知性 国家が求めているのは誰に入れるかではない
- yuki kato
- 7月16日
- 読了時間: 2分

なぜ選挙に行かないのか?と問われることがある。
無関心だと思われがちだが、そうではない。
私はむしろ選挙の構造をよく理解しているつもりだ。
その上で、行く必要性を感じないから行かないだけだ。
選挙は、国家にとって極めて優れたマーケティングシステムである。
国民の思考傾向や関心の分布を把握し、今後の舵取りに活かすためのデータ収集手段。
選ばれた候補そのものよりも、どんな思想がどれだけ存在しているかが本質だ。
どんな政党のどんな人が当選しようが、政権が変わろうが、投票というデータの使い方はほぼ変わらない。
なぜなら、巨大なデータは嘘をつかないからである。
そしてデータサイエンスが進化した現代では、その傾向はますます強くなっている。
誰が勝ったかではなく、誰が反応し、誰が沈黙したかまでが情報として処理されている。
たとえば選挙に行こう!というキャンペーンが行われたとする。
この行動自体が、社会に認知の波を生み出す。
重要なのは、どれだけの人が行ったかだけでなく、
呼びかけに対してどれだけの人が行かなかったかという非反応のデータもまた、国家にとっては有効な材料だ。
まず“存在を知っているかどうか”、ここが最初の測定基準でもある。
私は選挙という構造に反対しているわけではない。
ただ、そこに自分なりの意味を感じられない今、
合理的に行かないという選択をしているにすぎない。
投票は権利であって義務ではない。
権利とは、行使するかしないかを自分で決めていいものである。
だから私は、今の段階でこの制度に参加するメリットを感じていない。
それだけだ。
そして私はたぶん、今後も選挙には行かないと思う。
だがその代わりに、経営者として社会を変える仕組みを現場でつくり続けている。
むしろ選挙を客観視するたびに、その意志は強くなっている。
要するに、私にとって選挙とは、自分を俯瞰して見るキッカケである。
だからこそ、それが十分に実感できた時点で、
個人としての選挙の価値はすでに果たされていると考えている。
投票という行為そのものは、もはや必須ではない。
いつか、選挙という構造の外に、
自分の思想がまっすぐ響く場ができたなら。
そのとき私は、また違うかたちで参加するのかもしれない。








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