クラファンの闇と構造的な違和感について
- yuki kato
- 5月18日
- 読了時間: 4分
■ はじめに:全部がそうだとは思っていません
まず最初に大事な前提を伝えておきたい。
ここで語るのは、クラウドファンディング(以下クラファン)そのものを全否定するものではありません。
実際にクラファンで人生を変えるようなプロジェクトが生まれたり、社会課題の解決に繋がったケースもあります。支援の輪が広がり、良い未来が創られる瞬間も確かにある。
でも、現場でいろんなクラファンに関わってきた立場から見えるのは、表のキラキラの裏側にある「違和感」や「無理」や「歪み」です。
そして正直に言えば、大半のクラファンは構造的に歪んでいるか、当人の覚悟が甘い。
今回は、その「闇の構造」に焦点を当ててみます。
誰かを否定したいのではなく、使う側も支える側も後悔しないための視点を提供したいという思いです。
■ 知人クラファンという善意の強制
クラファンの闇でまず語るべきは、「知り合いクラファン問題」。
ある日突然、知り合いからDMやLINEが届く。
「ちょっとだけ応援してくれたらうれしいな」
「無理しないでいいから」
「リターンの○○すごくおすすめだよ!」
こんな言葉を添えて、URLが貼られている。
もちろん本人は悪気がない。むしろ必死で勇気を出して送っている。
でも受け取った側は、断りにくさと微妙な空気に襲われる。
「応援しないと、なんか冷たいと思われるかな」
「支援しなかったら関係性が気まずくなるかも」
「逆に支援したら、次もまた頼まれる気がする…」
善意という名の「圧力」が、静かに作用してくる。
結果として、関係性を守るための支援が生まれてしまう。
そして一番皮肉なのは、
その支援のせいで、後から関係が崩れることがあるという事実。
支援したのに感謝が伝わらない。リターンが届かない。プロジェクトが中止になって謝罪もない。
そんなとき、心のどこかでこう思ってしまう。
「俺、なんであのとき支援しちゃったんだろう…」
■ 他責構造としてのクラファン
クラファンには構造的にもうひとつ、大きな罠がある。
それは、
「自分じゃどうにもできないから、みんなの善意を借りてなんとかしよう」という他責構造。
クラファンは、資金も人脈も影響力も足りない人が、何かを始めるための手段。
本来は素晴らしい仕組み。
だけど、その仕組みが逆に
「自分が全責任を負わなくても、見えない誰かの善意を積み上げればなんとかなる」
という、甘えの温床になってしまうことがある。
特に、「共感されやすい物語」をつくってしまえば、プロダクトの完成度もビジネスプランの緻密さも後回しになる。
支援者は夢に感動するけど、実行者は実現の重さをまだ実感していない。
クラファンで集めたお金は、実力ではなく期待に対する先払い。
これはつまり、信用を借金している状態に近い。
だからこそ、返せなかったときのリスクが本当は大きい。
でも、クラファンの仕組み上「支援=寄付」のように扱われるため、何か起きても責任があいまいになる。
■ 本当に価値あるプロジェクトなら
もうひとつ、クラファンに違和感を覚える場面がある。
それは、「このプロジェクト本当に良いものです!」と本人が言いながら、なぜか知り合いを頼ってくるとき。
たとえばだけど、本当に商品力があり、再現性があり、ビジネスとして成立するなら、
クラファンじゃなくてもいくらでも手段はある。
・銀行からの融資
・エンジェル投資家との面談
・助成金の活用
・事業提携
・委託販売
つまり、クラファンに頼らない選択肢は本来山ほどある。
それらを差し置いて「知り合いベースでクラファン」に走る時点で、
その計画にはどこかしらの“弱さ”がある可能性が高い。
それでも挑戦するのは自由。応援するのも自由。
だけどそこに、本当は立ち止まって考えるべき論点があるということは、見ないふりをしてはいけないと思う。
■ まとめ:夢を叶える前に、構造を疑え
クラファンは素敵な仕組みです。
でもその仕組みが、時に人間関係を壊し、当人の成長機会を奪い、他責的な甘えを生み出してしまう危うさもある。
夢を語るのは素晴らしい。
でも、その夢が他人の善意でしか動かないものなのか、それとも自分で火を灯せるものなのか。
そこに、覚悟と実力の差が現れる。
誰かの夢を応援するなら、その人が
「支援がなくてもやる」という姿勢を見せているかどうかを見てほしい。
そして、自分がクラファンをやる側になるなら、
「誰の善意も前提にしない覚悟」が持てるか、自問してほしい。
善意を積むのは、素晴らしいことだ。
でも、それが人の足場になっているならまだしも、責任を手放すための階段になってしまうのなら、
それはもう「応援」ではないのかもしれない。
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