KYというストレスが日本人を病ませていったのでは?
- yuki kato
- 7 日前
- 読了時間: 3分
最近、こんなことを感じる場面が増えていないだろうか。
誰も本音を言わない会議。
LINEの返信がちょっと遅れただけで、不安になる日常。
SNSの投稿ひとつとっても、裏の意味を読もうとして疲れてしまう。
空気を読んで、読んで、読んで…気がついたら、自分の気持ちを感じる余裕すらなくなっていた。
でもそれは、あなたが繊細すぎるからでも、弱いからでもない。
むしろ、社会の側に構造的な問題がある。
日本という国に根深く存在する、言葉にされない前提で動くコミュニケーション文化。
これこそが、現代日本人が静かに病んでいく最大の原因だ。
■空気の支配が強すぎる
日本では、言葉にしないことが美徳とされる場面が多い。
ありがとうも、謝罪も、意思も、気配や表情で察することが当然とされている。
声に出さない思いやり、遠慮、沈黙の礼儀。
そうした空気の文化は、確かに調和を生みやすい。
けれど同時に、恐ろしい圧力にもなる。
言葉にしないからこそ誤解が生まれやすく、
期待と現実のギャップに誰かが傷つく。
しかも、それを指摘することすらまた「空気を壊す行為」だとされてしまう。
つまり、読み間違えても、読みすぎても、どちらも疲れる仕組みになっている。
■相互監視と「みんなと同じ」の呪縛
もう一つの根は、相互監視の強さだ。
常に誰かの目がある。
直接言われなくても、なんとなく居心地が悪くなる空気がある。
それが、黙っているだけで人をコントロールしてしまう。
学校でも職場でも、少し違う意見を言っただけで
「あの人ちょっと浮いてるよね」と言われるリスクがある。
だから皆、空気を読んで、同調して、波風を立てないことを優先する。
自分の本音より、場の雰囲気を守ることを選ぶ。
これは個人の問題ではなく、文化設計の問題だ。
■他者評価で自分を測る社会
そして日本では、自分の価値を自分で決めるのが難しい。
子どもの頃から、テストの点数、通知表、偏差値。
社会に出れば、上司の評価、取引先の満足度、SNSの反応。
いつも誰かの目を意識して、自分を評価してもらうことが当たり前になる。
その結果、自分の内側の声よりも、外からの評価が人生の軸になってしまう。
疲れないわけがない。
■海外では「言えば済む」が基本
アメリカやヨーロッパなどの文化では、言葉にしないと伝わらないのが前提だ。
ノーと言っても関係性が壊れることは少なく、意見の違いも個性として受け入れられやすい。
察する文化ではなく、伝える文化。
そこでは、言わないことが不親切になる。
だからこそ誤解も減り、気を遣いすぎる必要もない。
その違いが、精神的な自由度の差につながっている。
■脱・空気読み社会に向けて
じゃあ日本でどうすればいいか。
まずは、意識的に言語化を増やすこと。
何を求めているのか、どうしてそう思うのか、率直に伝える練習をする。
完璧じゃなくていい。言葉にするという姿勢が大事だ。
それから、空気に飲まれない技術を持つ。
誰かが黙っているからといって、それが同意だとは限らない。
自分の違和感にフタをしない。
空気を読むだけでなく、時には読まないという選択も必要になる。
そして何より、自分自身を、他人の評価なしに認めること。
誰にどう思われるかよりも、自分が納得できるかを大事にする。
■KYとは心を壊す仕組みだった
今は、空気を読みすぎて疲れている人のほうが多い。
だったら、空気を読まないという選択が、自分を守るために必要なのかもしれない。
誰かの空気を壊したっていい。
その空気が、誰かの心を締めつけているなら、壊すことがむしろ優しさになる。
自分を壊さないために、空気から一歩引く。
その勇気が、次の一歩を変えていくんじゃねーかねえ。
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