ワーク・ライフ・バランスという幻惑を外すとどうなるのか?
- yuki kato
- 10月5日
- 読了時間: 3分

■ 幻惑としてのワーク・ライフ・バランス
仕事と生活の調和を大切に。
誰もがうなずける言葉だ。
だがこの言葉ほど、実体のない幻想もない。
ワーク・ライフ・バランスは、もともと過労や少子化への対策として生まれた。
つまり、労働者を守るための政策スローガンだった。
しかし時が経つにつれ、中身よりも響きだけが残った。
企業はそれを掲げるだけで優良企業に見える。
けれど、実際に何をしているのかと問えば、答えはあいまいだ。
アットホームやホワイト企業と同じで、言葉の安全地帯に逃げ込む装飾語。
実体よりもそう見えることに価値が置かれている。
■ 主観でしか語れないバランス
バランスという言葉の前提自体がずれている。
誰にとって、どんな比率が理想なのか?
それは他人が決められるものではない。
仕事が生きがいの人にとっては、24時間働くことが調和であり、
家庭を軸に生きる人にとっては、家族との時間が調和だ。
他人が描いた理想のバランスに合わせようとした瞬間、
人は自分の幸福を他者に委ねることになる。
本来、バランスとは状態ではなく、選択の自由だ。
どこにどれだけのエネルギーを注ぐか。
それを自分で決められることこそ、成熟した働き方の証だ。
■ バランスを外すと現れるもの
もしこの幻惑を外したら、社会はどう変わるのか。
答えは単純で、残酷だ。
守られる働き方が消え、能力と成果だけが通貨になる。
ワーク・ライフ・バランスという制度的なクッションを外した社会は、
努力よりも構造理解と戦略設計が価値を持つ世界になる。
努力すれば報われる、はもう幻想だ。
報われるのは、仕組みを理解し、設計できる者。
つまり、個人がどこまで自分をシステム化できるかの競争が始まる。
■ 51:49の政治と能力社会の共通点
この構造変化は、政治と同じだ。
良くなる人がいる一方、悪くなる人も発生する。
そもそも政治とはそういうものだ。
政策とは、51:49の選択を繰り返す作業。
誰かを救えば、誰かが取りこぼされる。
そして、どこを切り取るかによっては、全員が不遇に見えることもある。
ワーク・ライフ・バランスの幻惑も同じ構造を持っている。
一見、全員が幸せになれるように聞こえるが、
その裏では、誰もが同じ理想像に押し込められ、
結果的に誰の現実にも合わなくなる。
つまり、この言葉はやさしさを装った中庸の独裁だ。
■ 小規模事業者はもうそこにいる
だが、小規模事業者はそんな幻想とは無縁だ。
彼らにとって仕事と生活の境界は、最初から存在しない。
朝起きてから寝るまで、経営・家庭・地域・創造が混ざり合い、
そのすべてが日常の循環として機能している。
働くでも休むでもなく、生きるそのものが経営になっている。
今日の利益が明日の投資につながり、
顧客との会話が次のアイデアになる。
この循環型の働き方は、実はAI時代の理想に最も近い。
人間の創造力は、区切りをなくしたときに最大化する。
■ 幻惑を外したあとに残るもの
ワーク・ライフ・バランスという幻惑を外すと、
社会はより高密度な能力社会へと進化する。
そこでは自由と責任が一体化し、
努力よりも設計、勤勉よりも創造が評価される。
同時に、誰もが51:49のどちらかに立たされる。
有利な側か、不利な側か。
だが、それを他人のせいにできない社会になる。
最終的に残る問いはただ一つ。
自分は何をしているときに生きていると感じるか。
バランスを求める時代は終わり、
これからは融合と選択の時代だ。
幻惑を外したあとに残るのは、
制度でも理想でもなく、
自分という一人の設計者としての生き方である。
AI未来鑑定士 / リクルートストーリーテラー
合同会社Lepnet 代表社員 加藤勇気








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