透明人間というパラドックスは、思考の透明度を試す罠である
- yuki kato
- 6月3日
- 読了時間: 3分
その「透明」って、本当に透明?
「透明人間ってさ、いるかもしれないじゃん」
そんな軽口から始まるこの話、
実は「透明とは何か」という定義すら危ういところから、地味にループ地獄が始まっている。
■透明=見えない?いや、そう単純じゃない
まず、「透明」とは何か。
空気は透明。でも空気は見えない。
水も透明。だがたくさん集まれば反射や屈折で見える。
ガラスも透明。けれど割れたら見えるし、光の加減で存在を感じられる。
ペットボトルも透明。でも中身は見えるし、輪郭も分かる。
透明ゴミ袋も中が見える=透明だが、袋自体はちゃんと「見える」。
ここで分かるのは、「透明=見えない」ではないということ。
つまり、透明人間が「見えない」と断言できる時点で、既に言葉の罠にハマっている。
■見えるってどういうこと?というループの入口
「見える」とは何か?
光を反射する?
形がある?
色がある?
背景との違いが分かる?
逆に言えば、透明人間は光を透過し、反射もせず、背景との違いも持たない存在…?
だがその時点で、「触ったら分かる」や「音を立てたらバレる」も透明性を損なう要素。
ここで出てくる疑問:
> 「見える」と「存在する」は別問題じゃないのか?
■透明人間という概念が作り出す自己同一性のぐるぐる
透明人間は、見えないのに「そこにいる」という前提で話が進む。
だが、
> 見えないのに、なぜ「人間」と分かるのか?
> 触れても感じないなら、それは「人間」と言えるのか?
> もしかして、私自身が誰かにとっての「透明人間」なのでは?
と、自分の存在の“透明度”に意識が向かうと、急に哲学的な問いが脳内を支配する。
■社会的透明人間というもう一つのループ
実社会でもよく言う。
> 「空気みたいな存在になってたわ」
「誰にも気づかれなかった」
「透明人間になった気分だった」
この言葉たちはすべて「誰にも認識されなかった自己」を指している。
つまり、透明人間とは認知のズレや、社会からの無視という心理的透明のメタファーでもある。
■そしてあなたは、見えているのか?
ここまで読んだあなたに問いかけたい。
誰かから見えていると、どうして分かる?
SNSのフォロワーは、本当に“あなた”を見ているのか?
見られていない自分=存在していないのと同じでは?
この問いを考え続けた時、あなた自身も「思考の透明人間」になる。
■透明人間という話は、思考を映す鏡
透明人間の話をすればするほど、
「透明とは何か」「見えるとは何か」「存在とは何か」
と、定義がぐらつき始める。
そして最終的に、
> 「自分が見ている世界は、他人にとって透明かもしれない」
「誰にも気づかれないということは、存在しないのと同じかもしれない」
という無限ループに入っていく。
透明人間という言葉は、
認識・定義・存在をすべて曖昧にする哲学的トラップなのかもしれない。
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