進学マーケティングというビジネスモデルに汚染された国、ニッポン。
- yuki kato
- 6月12日
- 読了時間: 4分
大学進学は本当に人生における「正解」なのだろうか。
この問いに、私はここ数年ずっと違和感を抱いてきた。
大学へ行くことで知識や経験を得られることもある。
しかし現実として、進学が人生設計や婚期を大きく遅らせる要因になっている側面があるのも確かだ。
それは本人の選択ミスではなく、構造的な背景がある。
私はその原因の一つに「進学マーケティング」という視点があると考えている。
■ 大学進学で婚期が遅れる理由
まず事実から整理したい。
大学に進学すれば、社会に出るのは一般的に22歳。
一方で、高卒であれば18歳からフルタイムで働き始め、
収入も貯蓄も人生の意思決定も早くから動き始めることができる。
この4年の差は単なる時間ではない。
高卒者が20代前半で結婚や子育てをスタートしている中、
大学卒業後の社会人は、奨学金という名の借金を抱えた状態からスタートするケースが多い。
この経済的・心理的なスタートの遅れが、
婚期を後ろ倒しにする明確な要因となっている。
■ 奨学金という言葉の裏にある現実
「奨学金」という言葉は非常にマイルドだが、実態は借金である。
日本学生支援機構などから借りる奨学金は、平均300〜500万円に及び、
それを月2〜3万円のペースで20代〜30代にかけて返済していく。
これはつまり、結婚資金も、引っ越し資金も、子育ての準備も後回しにせざるを得ない構造を意味している。
結果として、「奨学金の返済が終わるころに結婚を考える」という人が増える。
これは統計の分析でも、奨学金返済完了年齢と初婚年齢に相関が見られることから、裏付けられている。
■ 大卒の方が稼げるという統計の罠
大卒のほうが生涯年収が高いという話はよく耳にするが、
それはあくまで平均値ベースの話であり、現実とは大きな乖離がある。
一部の高年収層が平均を押し上げているにすぎず、
中央値で見れば高卒と大卒の差は年間50〜100万円程度。
月に直せば数万円の違いでしかない。
しかもその差額は、大学進学による学費や生活費、
さらには4年間の機会損失と奨学金の返済を考えれば、
むしろトータルでマイナスになっているケースも多い。
■ すべての大学が平等に価値があるわけではない
大卒であることに意味がある、という前提にも落とし穴がある。
それは、「どの大学を卒業したか」で、人生のルートが大きく変わるからだ。
たとえば、東大や京大、旧帝大や早慶のような大学なら、
ブランド力・就職先・人脈形成といった明確なリターンが期待できる。
しかし、偏差値40〜50台の私立大学ではどうか。
就職先は中小企業に偏り、初任給も低く、
大卒という肩書が就職・年収に直結しないケースも少なくない。
それでも4年間の時間と数百万のコストがかかる。
そのリターンを冷静に計算してみた時、
本当に行く意味があったのか、自問すべきではないかと思う。
■ 大学進学は「マーケティングされた常識」
ここで私が強く問題視したいのが、「進学マーケティング」という構造である。
進学は、あたかも個人の自由意思で選んだように思えるが、
実際には巨大なマーケティング産業の中で設計されたものだ。
塾・予備校・教育出版が進学を前提にビジネスモデルを組む
大学は広報やオープンキャンパス、パンフレットでブランド化を進める
親や学校も「大学に行かないと不安」という思い込みを強化する
奨学金制度が「進学可能」という錯覚を与える
こうして私たちは、進学という商品を「当たり前の選択」として購入させられている。
しかもその代金は、借金という形で将来の自由を奪う。
■ 結論:進学は目的があって初めて意味を持つ
私は大学に行くこと自体を否定しているわけではない。
ただし、それが目的なきまま、社会の空気やマーケティングに流された結果であるならば、
それは投資ではなく消費、いや、浪費に近い。
そしてその代償として、
人生の主導権を失い、婚期や自立のタイミングまで先延ばしになるのだとすれば、
一度立ち止まって問い直す価値はあるのではないだろうか。
■ 自分の進学に「問い」を持つことが、人生の選択肢を広げる
進学とは手段であり、目的ではない。
その大学に行くことで、何が得られるのか?
何年後にどのような人生が待っているのか?
その問いに対する答えを持たずに4年間と数百万円を投じるべきではない。
社会に出てから大学に行く、あるいは働きながら学ぶ、
そんな柔軟な道も今は用意されている。
だからこそ、進学という選択に思考と戦略を持つことが、
未来を遅らせないための、最初の一歩になると私は考えている。
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